楽しいことと面白いことの違いについて
楽しいことと面白いことについて。
似ているけど、違う。
両立するけど、違う。
しかし、
楽しくないからつまらない(面白くない)
とか、
楽しいから面白い
というのは文字通り違うんじゃないのか。
この二つの感覚は非常に似ており、それらが包括する範囲は重なるし、お隣さんくらいの近さだとは思われますが、根本的にはやっぱり違うんじゃないのか。
そういう思いから、そういったことをこの文章で触れてみたいと思います。
まず第一に、楽しいこととは何でしょうか。
例えば、ノリノリな音楽がかかっているとき。一種のトランス状態。
飲み会とかでやる宴会芸のとき。酒のアルコールによる、ほろ酔い状態。
複数人で一種の雰囲気に飲まれてる。その空気に酔っている。
そのコミュニケーションにコミットしている、参加している、あるいは視聴しているのも含まれます。
その楽しいという感覚においては、なにか負の感情(怒り、悲しみなど)は非常に邪魔です。楽しいという感覚には、会話の円滑さやノリが大事であり、それがあるとテンポが遅れたり、スムーズに事が運ばず、空気が壊れてしまうからです。楽しいには空気が大事なのです。「酔いが冷めた」感覚はお酒を嗜む人なら経験があるとおもいますが、そういう「酔い」がノンアルコールでもなくなってしまうのです。
そういったものを楽しい感覚としましょう。
また、やってて楽しいこと、とはまた違う感覚だと思います。それはむしろ面白くてハマっている状態だと思われますので、その楽しいに関しては排除します。
次に、面白いこと。
特に「笑う」ということについてスポットを当ててみましょう。
まず笑いが起こる状態が引き起こされる基本的なメカニズムとして、緊張の緩和があります。落語において桂枝雀が提唱したものであり、明石屋さんまなども「笑いとは何ぞや」という質問に対してそう答えています。
緊張の緩和とは、人間の心理状態がある不安定な状態(緊張)から一種の安定(緩和)に落とされたときに人は笑う、ということです。
例えばある人がボケたとき、それは世間の常識や価値観からどれだけズレるかがカギですが、その時に緊張状態が生まれます。
そしてツッコミがそのズレを戻すことで、安定状態をもたらす。そのズレ方や戻し方、そこで生まれる距離こそが笑いの質、面白さともいえるところですが、楽しいという感覚はこの点において異なると思います。
一般に、常識からズレるボケは、不謹慎、不真面目、自重するべきこと、好ましくないことがほとんどです。それ以外に面白いことをするのは、上手いこという(ダジャレ)か、あるいは謎かけをするかぐらいしかないんじゃないかと勝手に思っています。
ボケの例として、複数人で一人をあーだこーだいじくり倒す、いわゆる「いじり」は、そのコミュニケーションが行われている仲間内では楽しいし面白いかもしれませんが、それと関係ない全くの赤の他人には、楽しくないかもしれません。その人の価値観や常識は複数人で一人を「いじる」行為を好ましく思わず、下手をすると怒りに変わってしまうときがあります。
その怒りや不満の感情は楽しくないという感情に直結しやすく、緊張とは別の状態になってしまいます。その人の中では空気が壊れ、それが別の人に伝わり、ノイズとなっていきます。楽しくないが生まれるタネとなります。
一つ、楽しいと面白いを混同しやすいシチュエーションをあげておきます。
たとえば、カフェーで一人で憩いを満喫しているときを想像してみてください。
そこで一人、読書をするなり、カフェーを味わうなり、ボーっとしているあなたのとなりに、大きな声で話をするグループが入ってきました。
あなたは一人の時間を楽しみたいですが、あいにく耳栓やMP3プレイヤーなどを持ち合わせて
おらず、否が応にもその会話が聞こえてきます。
そこでワッハッハ、彼らは盛り上がります。笑いが起きます。
あなたはどう思うでしょうか。
十中八九、その会話を面白くない、なんでこいつらは笑ってるんだ、馬鹿なんじゃないのか、と思うでしょう。
あまつさえ、カフェーでボリュームを大にして喋っているこいつらを殺してしまいたいとさえ思うのではないでしょうか。
それが普通です。
私の目標といたしましても、そういう隣の席の第三者さえも面白いと思えるような会話を築いていきたいと思っていますが、人間そうも年がら年中いつでも面白いなんていうのは無理です。
それはさておき、そこには、その会話自体が面白いかどうかの判断を別に、自分が参加していないことからくる不満、負の感情が大きく作用しているのではないでしょうか。
つまるところ、楽しくない、です。
(その会話自体が本当につまらないかどうかは知りません。)
殺してしまいたいと思ってしまうくらいですから、余程の負の感情でしょう。
ちなみにカフェーの最後のほうの「ェ―」を伸ばす遊びも、私だけの遊びなので、「ん?」と思った人も多いのではないでしょうか。そういう「ん?」の感覚です。
負の感情が絡んでしまうと、そのコミュニケーションの質を見る目がぶれてしまいます。
こういった楽しくない=面白くないという思い違いをしてしまうのは危険です。
そのわけをゴールデン番組と深夜番組との関係を見ながら、考えて見ましょう。
深夜でやっていた凄い面白い番組が、お茶の間が意識されるゴールデン番組になると面白くなくなる、そういった考え方はもはや一般にも広がっていると思います。
ゴールデン番組、いわゆるバラエティにおいて最も大切なのは、「楽しいこと」です。
楽しいこと、例えば複数人でやる団体芸や、クイズ番組、トーク、エンターテイメント。
そこでは空気が大事です。それを壊さないようにあらゆる演者たちが四苦八苦します。
しかし一方で、深夜番組において最も大切なのは「面白いこと」です。
面白いこと、好き勝手やって世間体とか常識とか価値観関係なくめちゃくちゃやる深夜番組。面白いことをしようとあらゆる演者たちが四苦八苦しています。
楽しいことにノイズがあってはいけません。誰かが怒りや不満等の負の感情を抱いていてはいけないのです。先ほどのカフェーの件を思い出してください。
そこに笑いにおける、前述した緊張の緩和理論からすると、緊張に振っている状態(前フリ)の時点で、可哀想だなとか、そんなことをしてはいけないとか(価値観や常識です)のノイズが入ってしまうと、いくらツッコミで緩和された状態に持っていこうが意味がありません。緊張状態が別の心理状態になってしまっているからです。
すると視聴者はどうするか。チャンネルを変える(見ない)、抗議をするなどが考えられますが、提供する側としては視聴率獲得のためにそういった笑いを作るのをやめます。バラエティ作り、エンターテイメント(多分エンターテイメント側に失礼)のほうに重点を置くようになってしまいます。
しかし深夜の番組では、面白いかどうかがカギですので、そういったノイズは生まれにくいです。むしろ教育に悪いとか不謹慎だなどを思う人は深夜番組にそれを求めませんし、あるいはもともと見ないかもしれません。
そうすると、視聴率が全ての番組作りにおいては、面白いものを提供しているはずなのに、刺さってくれない、視聴率が獲得できない。そうなればもう、その方法では番組は生存出来なくなってしまうのです。
間接的に殺してしまうのです。
これが、危険な理由です。
こうしてみると、面白いを作るのに制限が少ない深夜帯、一方で面白いを作るには制限がある上、楽しい状態を作らなければならないゴールデン帯にはそもそも番組作りのスタンスや条件において全く質が異なることがわかります。そして、面白いと楽しいというのは作る方法がそもそも違っており、それによって生まれて来るものも違ってくることがわかると思います。ゴールデン番組がなにかつまらない、深夜番組はどうしてこんなに面白いのか、その違いがここで見えてくるのではないでしょうか。
それらをごっちゃにしていても別に悪いことではありませんが、面白いことが武器になるこの時代では、その違いを知っていることは決して悪いことでもないとは思います。
そもそも面白い面白くないの分別でさえ、私も怪しいのですから、
楽しくないから面白くない(つまらない)というのは、ちょっと待てよとワンテンポ置くようにしたいものです。
それで本当に面白いものを切り捨ててしまうことが無いよう、自分への戒めもこめて。
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なぜブスドッキリで笑えなかったか – ひとりで考えるのは疲れた · 2018年10月5日 12:17 AM
[…] ⇒楽しいことと面白いのことの違い […]