【東京大学入学式祝辞】東大落ちて鬱になったワイの主張
賛否両論あるけれども、自分にとってとてもとても響くことのある祝辞でしたので書きます。
いろいろ考えたので、聞いてください。
導入
まず素晴らしい祝辞だったと、僕は思います。
というか、僕自身にとって、今まで取り組んできたことと、これからまさにやっていきたいテーマに他ならないから響きました。
簡潔に言うと、不正入試などを例にして女性に立ちはだかる差別を切り口に、社会の構造と問題点に触れ、大学のこれからのあるべき姿・生徒達に求められる姿を説きます。
この祝辞の肝は、やはり次の段でしょう。
あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと…たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。
平成31年度東京大学学部入学式 祝辞
タイトルにあるように、僕は東大に落ちました。10年以上も前の話になりますが、未だにコンプレックスを抱えています。当時に比べるとほぼ無いと言っても過言でもないですが、確かにあります。
なぜ落ちたのか。
東大に落ちたのはただただ、実力不足だと思いました。
後から話を聞いたり、いろんな出会いとか思考を重ねていくたびに、とても遠い存在のように思えました。
なのでたらればをああだこうだ言うつもりは毛頭ありません。
しかし、じゃあどうやったら、その「実力」とやらを得ることが出来たのでしょうか。
その一つの答えが、「環境」だと僕は言えます。
環境によって全てが変わります。
逆に言えば、成功しないのは環境が悪いということになります。
これは多分、真です。
努力が報われるような努力、仕掛け、構造や仕組みに対するアプローチをしていない。生産性を上げる、創造性を発揮してイノベーションを起こす。やり方を変えていない。
人によってはそれは「楽」だとも言われます。
だからうまくいかない人は、環境へのアプローチが必要になる。
でも環境を変えることは難しいです。
適応するのは、下手すれば死にます。
なので、環境そのものを選んだりする必要が出てきます。
僕は、根性論でがむしゃらに頑張って、身も心も魂も省みず捧げた結果、体と心を壊しました。
その結果、うつ病になりました。
ちなみに落ちたせいで鬱になったわけではありません。そこに直接の因果関係はありません。一因ではありますが。
高校生活から兆候が見え始め、その後の大学生活で発症に至ります。シリーズで書いていくつもりなのでよろしければ。
環境によって左右されるもの
それは「健康」です。
さまざまな変数から、人間の健康に対して影響をします。
環境を、今いる場所・状況・居場所・状態と言い換えることが出来ます。
例えば、家庭、職場、人間関係、物理的空間。
どれをとっても、私たちに深く影響してきます。
逆に言えば、健康にアンテナを張っていれば、その環境が自分に合っているかどうかがわかると僕は考えます。
観葉植物から見る環境
自分に合った環境というのが必ずあります。
これもきっと事実です。
観葉植物を育てていて、いくつかを枯らしてしまった経験からひしひしと感じます。
環境が自分と合わなければ、枯れるだけ。
植物は「生存繁栄」というシンプルな目的のためのシステムそのものです。
生命であり、それ自体が合理的なシステムなのです。
そんな究極に生存だけを追い求めている植物でさえ、環境が合わなければ死ぬのです。
況や人間をや。
植物は根を張り、その場所から動けないですが、人間は違います。
環境を変えることも、適応することも、逃げることも出来ます。
環境によって努力が報われる・成功が出来るのなら、まず健康に対して投資をすべきなのではないか。健康であれば、比較的努力は報われやすくなる。
環境を整えて、健康をソリューションとしたい。
それが僕の主張であり、仮説です。
やりたいことは、努力が報われるような努力を考えることです。
自分の努力が報われるにはどうしたらいいか?
努力に努力を重ねるのはナンセンス。それは根性論です。
生産性を考えないといけません。
成果を出すためには、量と質を考えることが重要。
健康を損なうと。そもそも量ができないし、ストレスが溜まると質も落ちますし、やり方も変えられない。
そもそも量は足りているのか?質は足りていますか?
代ゼミ講師の林修は、「正しい場所で正しい方向で十分な量なされた努力は裏切らない。」と言っています。
健康について
健康を考えるときに、以下の3つに分かれると僕は考えています。
・身体的健康
・精神的健康
・能力的健康
着想は「心技体」から得ました。
現段階ではWIPの箇条書きで申しわけないですが、触りだけ書きます。
・能力的健康
問題をすぐに解決することができるということを指します。
有能だったら、頭がいいからすぐ方法を思いつく。
あるいは、努力の質が上がります。頭の使い方、OS。IQに近い。
人は問題が起こるせいでストレスを抱えます。それ自体は自然なことです。ですが、あまりにも長期化・被害が継続すると精神を病んでしまいます。そのおかげで肉体にも影響が及びます。そもそも精神だけでなく、肉体にも物理的な影響を及ぼす問題に直面することもあります。
・精神的健康
ポジティブだったら、病むことなく、無駄なことに時間を使わないから、多く挑戦できる。
かつ、ストレスを感じてないので、創造性が高い施策を思いつく可能性が高い。質と量をこなすことが出来る。
ストレスの人間に対する影響は計り知れない。
・身体的健康
体が元気だったら、疲れにくく、何度も挑戦できる。量
回復しやすいからポジティブになる。
不調が多いとネガティブになりやすい、というか心が削られる。無駄。
これらが揃わないと、人生をうまく生存するのは難しいでしょう。
受験までについて
僕は地方の公立中学校から、進学校の高校へ入学しました。
それまでの自分は、勉強ができる自分として精神を保っていた。それで自分の存在の資格を確かめていました。しかし、中学とは打って変わって、周りも優秀で、自分の存在価値というものが無意識で脅かされていたと思います。
そもそもそんなに頭がよくなく、能力がありませんでした。ここでいうところの、不健全な能力と言えます。
なので勉強という努力でカバーすることになります。
学校は朝9時から夕方5時までびっしり続き、そこから家に帰り、宿題。
また次の日。
青春とは程遠い、何かでした。
高1から東大を目指していました。自分の存在の資格を得るという、承認欲求を満たすためです。
そこからわかるように、自分の家に居場所を感じていませんでした。
心を開いて話せる友達も殆どいませんでした。話す友達は全然いましたが。
当時のは無意識のうちでは、とてつもなく孤独を抱えていたと思います。
リフレッシュすることはない、ずっと引きこもり、家にいました。
宿題等はそれなりにこなしていましたと思います。
※ちなみに、祝辞の中に
これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそ~
という節がありますが、ここはあまり同意できないというか、少し考えが違います。注意してください。自己肯定感や自尊心を育む、という点では同意できています。
高2の頃から体調を崩しがちになりました。
とにかくがむしゃらに勉強することしか知らなかった僕は、効率のいい勉強や、遊んだりして休憩することをしませんでした。というか、それがズルだと思ったり、怠慢だとすら思っていました。
そんな余裕のない僕は、理想と現実に苦しむことになります。
いつしか、思うように勉強が出来なくなっていきました。
宿題すらもできなくなり、現実逃避を始めていきます。
なぜ、勉強できなくなっていったか?
ここでは簡単に、ストレスを挙げておきます。
家ではないほとんど話さない。ドラクエの主人公のように、両親とは「はい・いいえ」しか話しませんでした。とくに母親とは。
反抗期では無いと思います。もっと冷めた、憎悪に近いものだったと思います。
土日はほとんど寝ることに使い、昼の3時から活動を開始する。
まず目覚めるのにとても苦労します。二度寝は当たり前。頭は靄がかかっていて、鉛のようにとても重い。現実から目を背けるように、枕に蹲っていました。
いざ起きるとなっても、疲れていました。やる気が起こらず、勉強をやろうやろうと思いながら、だらだらと過ごし、気づけば夜中。
その現実逃避をやれどもやれども、まったく晴れず、満たされない何か。
何も行動が出来ない自分、努力を積み重ねられない自分に絶望していました。
やらなければならない理想と現実に苦しみます。
そして当然、結果が出せない自分に焦る。
自分のやり方に固執する余裕のなさ。自分が正しいと思うために、続けていたと思います。
そして高校三年になります。
そこでも工夫はいくつかしますが、2年生とあまり生活が変わらず、誤魔化しながら生きていく日々。それなりの量はこなしつつも、今一歩抜け出せない。
ただただ妄信的に、狂気で勉強を続けていました。
そんな日々でした。
地獄でしたね。
自己嫌悪と奮起の連続の日々です。
以上からわかるように、精神的健康・身体的健康を失っています。
問い
僕はただの怠惰な駄目な奴だったでしょうか?
否、そうではない。
努力ができなかったのだと思います。
死ぬほど努力がしたくても、努力ができない状況。
自分ほど、努力をしたかった人間はあまりいないと思います。
世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと…たちがいます。
まさしく、こういう人が、社会には死ぬほどいると思います。
文字通り、死ぬほど。
学生やサラリーマン、フリーターやニート、夢を追いかけるミュージシャンや芸人、ジャンルは問わず様々です。もう一歩の努力・成果・ブレークスルーが出来なくて、燻っている人たちも含まれます。
そして、その一人が僕です。
「努力したいですか?」と聞くと、別にそうはならなくていい、努力したくないと答えるでしょう。
でも「幸せになりたいですか?」と聞くと、ほとんどがイエスと答えるでしょう。
ではなぜ、幸せになれていないのでしょう。
運が悪いというのなら、それこそ環境のせいでしょう。自分を取り巻く環境が、上手くいかないようになっているだけです。
答えとしてほとんどが、努力が報われていないからです。
さらに言えば、適切な質量の努力が出来ていないからです。
そしてそれは、健康状態になく、環境に恵まれていないからです。
努力を報われるようにするために、環境を整備・構築すること。
そのために必要なのが、健康である。
健康に投資していけば、自分に最適な環境を選ぶ、あるいは構築できる。
なので、努力を報われるように出来る、成果を出せる。
そういう仮説を、人生をかけて実証していきたいと思っています。
このブログの目的の1つです。
その方法を言語化可視化、実績として残して、再現性のある手法にまで洗練して、発信していくのがミッションです。
小東やすしというプロジェクトの目的の一つでもあります。
それを再確認させてくれる、祝辞でした。
まじ論理展開とか含めそんなんもっと詰めて深く書きたいけど、とりあえずこんなかんじのエイヤでいいや。
とりあえず出す大事。リライトするから堪忍な。
引き続きお付き合いいただければと、思います。
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ワイのうつ病クロニクル 目次まとめ | ひとりで考えるのは疲れた · 2020年2月2日 4:08 PM
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